株式会社ウィ・キャン
2025年度版
本白書は、医療・介護・福祉の現場から当社の相談窓口に寄せられた2,000件を超える電話のうち、 職員からのカスハラ相談995件を分析し、その実態と構造を整理した記録です。
しかし、ここで示される課題は特定の業種に限られず、行政、教育、企業など、あらゆる職場で起こり得ます。 だからこそ本書は一般公開とし、誰でも自由に活用できる形にしました。 現場の声を社会全体で共有し、働く人を守るための具体的な視点を、多くの方に届けたいと願っています。
本白書を手に取ってくださり、ありがとうございます。私たちの相談窓口には、医療・介護・看護・福祉の現場で働く方々から、日々多くの声が寄せられています。2025年度には、カスタマーハラスメント(以下「カスハラ」)に関する相談が995件寄せられました。そこには、強い言動にさらされながらも、利用者のために職務を続けようとする職員の姿がありました。
同じ一年間で、医療機関に直接かかってきた患者・家族からの相談や問い合わせを、当社窓口が1,306件受け止めています。要領を得ない訴えや長時間の話し込みなど、本来の医療・介護とは関係のない電話が、現場の時間を奪ってしまうことがあります。窓口がこれを肩代わりすることで、職員が本来の業務に集中できる環境を守ることも、私たちの重要な役割です。こうした2,000件を超える声は、現場の負担が静かに積み重なっていることを示しています。
本白書は、これらの相談を単なる数字として扱うのではなく、そこにある構造と背景を社会に伝えるために作成しました。カスハラは医療、介護福祉だけの問題ではありません。行政、教育、民間企業など、あらゆる領域で同じ構造が起きています。だからこそ、本書は登録や有料の仕組みに閉じず、誰でも読める形で一般公開することにしました。多くの方に触れていただくことで、現場の実態を社会全体で共有し、対策の質を高める一助になればと願っています。
2026年10月には、カスハラ対策が法的義務となります。これは、現場を守るための最低ラインが全国で共有される大きな節目です。本白書が、自治体や医療関係者だけでなく、企業や地域の皆さまが対策を進める際の「地図」として役立つことを期待しています。
職員を守ることは、利用者を守ることと矛盾しません。安心して働ける環境があってこそ、質の高い医療・介護が提供されます。私たちはこれからも相談窓口の運営と分析を通じて、現場の変化を捉え続け、その声を社会に届けてまいります。
株式会社ウィ・キャン
代表取締役 濱川 博招
カスハラへの対策は、事業者の裁量に委ねられた課題から、法が事業者に求める義務へと変わりました。
厚生労働省「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査」(2024年5月公表、企業7,780件・労働者8,000名が回答)によれば、 過去3年間にカスハラに関する相談があったと回答した企業は27.9%にのぼります。 これは前回調査(令和2年度)の19.5%から8.4ポイントの増加です。 同じ調査では、パワーハラスメント(48.2%→64.2%)、セクシュアルハラスメント(29.8%→39.5%)についても相談があったと回答した企業が増えており、 職場のハラスメントは全体として増加傾向にあります。そのなかでカスハラは、 2026年10月から新たに事業主の対策が義務づけられる領域です。
では、この調査がいう「著しい迷惑行為」とは具体的にどのようなものか。同調査で、実際に被害を受けた労働者が挙げた内容は次のとおりです。
出典:厚生労働省「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査 結果概要」(2024年5月)。 過去3年間に顧客等からの著しい迷惑行為を受けた経験があると回答した労働者(n=861)による複数回答。
最も多いのは「継続的な、執拗な言動」(57.3%)、次いで「威圧的な言動」(50.2%)です。 カスハラの中心にあるのは、一度きりの激しい爆発ではなく、繰り返され、積み重なっていく言動である―― この調査結果は、そのことを示しています。危険は、静かに蓄積するのです。 本書が後段でご報告する現場の相談も、まさにこの構造を映し出しています。
同調査は、迷惑行為の行為者の82.3%が「顧客等(患者またはその家族等を含む)」であったと報告しています。 調査は全業種を対象としたものですが、その定義にはっきりと患者・家族が含まれている点は、 医療・介護の現場にとって見過ごせません。次節以降で、この領域に固有の事情を見ていきます。
2025年6月11日、「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律」 (令和7年法律第63号)が公布されました。この改正により、 事業主にはカスハラ対策を講じる義務が課されることになります。 施行日は2026年10月1日です。
重要なのは、この義務に企業規模による猶予が設けられていないことです。 従業員を雇用するすべての事業主が対象となります。医療機関も、介護事業所も、規模の大小を問わず、 この日までに体制を整えなければなりません。
2026年10月1日という期日は、すでに確定しています。 現場を抱える組織にとって、いま問われているのは「対応するかどうか」ではなく、 「何を、どこまで整えれば足りるのか」です。
2026年2月26日、厚生労働省は 「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (令和8年厚生労働省告示第51号)を公布しました。事業主が具体的に何をすべきかを示すものです。
指針が求める措置は、大きく次のように整理できます。
| 措置 | 内容 |
|---|---|
| 方針の明確化と周知 | カスハラを職場において生じさせてはならないという方針を明確に示し、 従業員および顧客等に対して周知・啓発する |
| 相談窓口の設置 | 相談に応じるための窓口を設置し、従業員へ周知する。 既存のハラスメント相談窓口と統合することも可能とされる |
| 対応マニュアルの整備 | 具体的な対応方法をあらかじめ定める。 管理職への報告体制、一人で対応させない体制、録音・録画の活用などが含まれる |
| 事後の対応 | 発生時に、事実関係の迅速な確認、被害を受けた従業員への配慮(担当の変更等)、 再発防止に向けた措置を行う |
出典:厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」 (令和8年厚生労働省告示第51号、2026年2月26日公布)に基づき当社にて整理。 措置の詳細および正確な要件については、必ず指針の原文をご確認ください。
ここで注目していただきたいのは、指針が求めている措置の性質です。 「一人で対応させない」「記録を残す」「事実関係を確認する」「担当を変更する」―― これらはいずれも、個々の職員の努力や心構えを求めるものではありません。 組織が仕組みとして備えるべきものです。
本書の第3部でご覧いただくとおり、当社の窓口に寄せられる相談の多くは、 まさにこの「組織としての備え」が機能しなかったときに深刻化しています。 法が求める措置と、現場で実際に必要とされている対応は、正確に重なっています。
国による義務化に先立ち、各自治体は条例を施行しはじめています。 2025年4月に最初の条例が施行されてから、その動きは各地に広がっています。
先頭を切ったのは東京都です。2024年10月に「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」を制定し、 2025年4月1日から施行しました。業種を限定しない条例としては、全国で初めてのものです。 罰則は設けられていませんが、カスハラを「してはならない行為」として公的に位置づけた点に意味があります。 同じ日に、北海道と群馬県でも条例が施行されました。
| 自治体 | 施行 | 特徴 |
|---|---|---|
| 東京都 | 2025年4月1日 | 業種を限定しない条例として全国初。罰則は設けず、「してはならない行為」と明示 |
| 北海道 | 2025年4月1日 | 東京都と同日に施行 |
| 群馬県 | 2025年4月1日 | 同上 |
| 愛知県 | 2025年10月1日 | 都道府県として4例目。カスハラの禁止と各主体の責務を定め、罰則は設けず |
| 静岡県 | 2026年4月1日 | 2025年10月17日に公布 |
| 栃木県 | 2026年4月1日 | 2026年3月19日に公布 |
| 埼玉県 | 2026年7月1日 | 事業者に加え、個人事業主・ボランティア団体・町内会も対象に含める |
条例の動きは市区町村にも広がっています。 なかでも三重県桑名市は、警告を経ても改善が見られない場合に行為者の氏名を公表できる規定を全国で初めて設け、 2025年4月1日から施行しました。 このほか、群馬県嬬恋村・中之条町、静岡県長泉町、茨城県城里町、島根県美郷町、岡山県岡山市でも条例が施行されています。
ここまでの条例は、いずれも行為者を直接罰する規定を持っていません。 その一線を越えようとしているのが三重県です。 県は罰則を伴う条例の最終案をまとめ、2026年9月の県議会に提出する見通しです。 案では、事業者からの申出を受けた知事が、専門家による審査会に諮ったうえで行為者に禁止命令を出せることとし、 この命令に従わない場合に50万円以下の罰金などを科すとしています。 可決されれば全国初の罰則付き条例となり、2027年4月の施行が見込まれています。
条例という形をとらずに動いている自治体もあります。 神奈川県は条例を制定していませんが、県・労働団体・経営者団体など8団体が共同で 「STOP!カスハラ!!かながわ宣言」を行い、社会全体の機運づくりから取り組んでいます。 2025年3月には、県の職員を対象としたカスハラ対策も開始しました。
条例のある地域とない地域、罰則のある条例とない条例。 現時点では、どこで働くかによって守られ方に差があります。 2026年10月の法改正は、この差を全国一律の最低ラインで埋めるものです。
本書が分析するのは、2025年4月から2026年3月までに当社の窓口へ寄せられた相談です。 これは東京都カスタマー・ハラスメント防止条例が施行された日から、ちょうど1年間にあたります。 その最初の1年に現場で何が起きていたかを、本書の第2部以降でご報告します。
カスハラは、あらゆる業種で問題になっています。 そのなかで医療・介護・看護・福祉の現場には、 ハラスメントが止まりにくくなる構造があります。 職員の心構えや経験の問題ではありません。現場の成り立ちそのものに、そうなる理由が組み込まれています。
| 特徴 | 内容 |
|---|---|
| 多職種・多事業所が 分散して関わる |
訪問看護、ヘルパー、デイサービスなど、複数の事業所が個別に現場へ入る。 そのため、誰かが感じた違和感や兆候が、その場で共有されにくい |
| 事業所ごとに 線引きが違う |
どこまで応じるかの基準がそろわないため、要求はエスカレートしやすい。 相手が窓口を使い分けることもある |
| 情報は集まるが、 権限は伴わない |
ケアマネジャー等に情報と後処理が集中する一方、全体を統括する権限はない。 決定権はないのに説明責任だけを求められ、「誰が止めるのか」が曖昧になる |
| 閉じた空間で、 一人で向き合う |
とりわけ在宅では、職員は利用者や家族の生活空間へ単独で入っていく。 第三者の目がなく、助けを呼ぶこともできない |
| サービスを 止められない |
相手は治療やケアを必要としている。 他の業種であれば「お断りする」という選択肢があるが、医療・介護では容易に採れない |
| 相手の背景に 事情がある |
不安、痛み、疾患、介護疲れ。強い言動の背景に理解すべき事情があることが多く、 職員は「線を引くこと」に強いためらいを抱く |
これらが重なると、結果として組織的な介入が働かない状態が生まれます。 情報は遅れて届き、届いたときには担当者がすでに一人で抱えきれなくなっている。 そして「利用者のために」という使命感が、危険を耐えるべきものへと変えてしまいます。
苦情(クレーム)は改善の要求です。応じれば終わります。 一方、不当要求は相手を精神的に追い詰めていく働きかけであり、応じても終わりません。 むしろ、応じるほど次の要求が生まれます。 行為者に悪意があるとはかぎらず、正義感や善意を伴っていることも少なくありません。 両者を同じ「お客様の声」として扱うと、現場は際限なく削られていきます。
これが放置されれば、職員の離職を招き、本来の医療・介護業務にも支障をきたします。 それは最終的に、ハラスメントを行った当人を含む、地域の患者・利用者が受けるサービスの質を損ないます。 職員を守ることは、利用者を守ることと対立しません。同じことの表と裏です。
法律や条例、国の指針によって、対策の枠組みは整ってきました。 ここから先で大切になるのは、その枠組みを現場で実際に活かしていくことです。
そのとき忘れたくないのは、カスハラの実態は、一度つかめば終わりというものではない、という点です。 相手や場面によって現れ方は異なり、年ごとにも傾向は動きます。 単発の調査ではなく、相談を継続的に記録し、分析を積み重ねていくことで、 その年だけでは見えなかった変化や傾向がつかめ、対策を実態に合わせて磨いていけます。
当社は、医療・介護・看護・福祉の現場からの相談を継続的に受ける窓口を運営しています。 本書はその一年分の記録ですが、こうした記録を毎年重ねていくことで、現場の変化を捉え続けられると考えています。 2026年10月に向けて、そしてその先も、自治体や医療関係機関の皆さまが対策を続けていくための土台となる材料を、 継続してお届けしていきます。
2025年度に当社の相談窓口へ寄せられた995件の相談と、その通話内容の分析です。本書の中心をなすパートです。
当社は、自治体・医師会等との協定に基づき、医療・介護・福祉の現場からのカスハラ相談窓口を運営しています。 2025年度(2025年4月〜2026年3月)に寄せられた相談は、995件でした。
これに加えて、提携先等から転送された電話を中心に、患者・家族等からの相談への対応を1,306件行っています。 窓口が矢面に立つことで、現場が直接これらに対応せずに済んでいます。 職員からのカスハラ相談と患者・家族等からの相談を合わせると、2,301件の電話に対応したことになります。
以降、本書で「相談」として扱うのは前者の995件です。 患者・家族等からの相談は性質が異なるため、危険度・類型などの本格的な分析からは切り離し、 その概況だけを2-8にまとめました。詳しい分析は、別途あらためて報告する予定です。
当社の窓口は、協定を締結している自治体・医師会の区域を対象としています。 2025年度に相談が寄せられたのは、東京都・埼玉県・神奈川県・大阪府・千葉県の5都府県です (大阪府は2025年8月から、千葉県は2025年9月から受付を開始しました)。 以下の分析は、これらの地域から寄せられた相談に基づいています。
相談は、年間を通じて途切れることなく寄せられています。
当社相談窓口の受理記録に基づく。 患者・家族等からの相談への対応(1,306件)は含みません。大阪府は2025年8月から、千葉県は2025年9月から受付を開始しています。
受理記録には、相談の内容についての基礎的な情報が記録されています。 ここから、現場で起きていることの輪郭が見えてきます。
まず注目していただきたいのは、行為者が「ケアの相手本人」だけではないという事実です。
当社相談窓口の受理記録のうち、 通話内容から行為者の属性が判明した640件。
最も多いのは利用者本人(37.0%)ですが、利用者の子・配偶者・親・兄弟を合わせた「家族等」も37.8%にのぼり、 ほぼ同じ規模を占めています。とりわけ利用者の子が26.7%と、単独で4分の1を超えています。
現場の対応マニュアルや研修は、しばしば「利用者本人への対応」を中心に組み立てられます。 しかし実際には、ほぼ同じ頻度で家族等が行為者となっています。 家族は契約の当事者であることも多く、ケアの継続に直結する立場にあるため、 職員はいっそう断りにくい状況に置かれます。
相談を寄せる職員と、ハラスメントの行為者を、それぞれ性別で見てみます。 被害を訴える側はやや女性が多く、加害する側はやや男性が多いという傾向が見られました。
相談者の性別は受理記録879件、 行為者の性別は性別が判明した459件(記入639件のうち不明を除く)。
医療・介護は女性の職員が多い現場であり、相談者に女性が多いのはその反映でもあります。 一方で、加害する側も、男性・女性の双方に及んでいます。 性別による極端な偏りがあるわけではなく、 誰もが被害者にも、対応の当事者にもなりうるのが、この問題の実態です。
行為が発生した場所は、自施設が39.8%、利用者・患者の自宅が29.2%でした。 施設内だけでなく、3割近くが訪問先という「閉じた空間」で起きています。 第1部で述べたとおり、訪問先では職員が単独で対応せざるを得ない場面が生まれやすく、 助けを呼ぶことも困難です。
行為の内容が判明しているもののうち、最も多いのは暴言(44.6%)でした。 次いで不当なクレーム(18.0%)、不当なサービス内容の要求(13.9%)と続きます。
| 行為の内容 | 件数 | 割合 |
|---|---|---|
| 暴言 | 141 | 44.6% |
| 不当なクレーム | 57 | 18.0% |
| 不当なサービス内容の要求 | 44 | 13.9% |
| セクシュアルハラスメントを含む発言 | 17 | 5.4% |
| 殴る・蹴る等の暴行 | 12 | 3.8% |
| 身体を必要以上に触られる | 10 | 3.2% |
| 物を投げられる | 2 | 0.6% |
| その他 | 33 | 10.4% |
当社相談窓口の受理記録のうち、 通話内容から行為の内容が判明した316件。
身体への直接的な加害も、確実に存在しています。 殴る・蹴る等の暴行が12件、身体を必要以上に触られるが10件、物を投げられるが2件。 合わせて24件、記録の7.6%が身体への加害です。 セクシュアルハラスメントを含む発言(17件)と合わせれば、 41件が言葉の範囲を超えた行為にあたります。
本書では、2025年度に寄せられた相談995件の通話内容を分析しました。 第2部の後半および第3部でご報告するのは、この995件の分析結果です。
相談件数の集計とは異なり、「そこで何が語られたのか」を読み取るには通話内容そのものが必要になります。 本書は、この995件を手がかりに、現場で起きていることの実態に迫ります。
内容を分析した995件の通話時間は、延べ445.3時間にのぼります。 これは18日間、昼夜を問わず連続して相談を受け続けたのに相当する量です。
これは本書が分析した範囲の数字であり、実態はこれを上回ります。
件数以上に現場の実態を語るのが、1件あたりの通話時間です。平均通話時間は27.3分。 4割弱にあたる369件(37.7%)が30分を超え、最も長いものは2時間に及びました。
当社相談窓口に寄せられた電話相談 n=995
相談時間が30分を超えている場合は、相談者が患者・利用者・家族等からさまざまなカスハラ行為を受けていたことが予想されます。 その対応も、日常の対策にとどまらず、契約解除に至る場合が多く見受けられます。 つまり、相談時間の長さと、相談者が受けていた精神的苦痛とのあいだには、何らかの相関関係があると考えられます。
通話時間は、単なる長さではありません。通話が長い相談ほど、危険度3(組織介入が必須)である割合が高く、 通話時間と深刻さのあいだには、何らかの関係があるということが考えられます。
内容を分析した相談 n=995。 各棒は、その通話時間帯の相談のうち、危険度3と判定された割合。
10分未満の相談では危険度3は25%ですが、30分を超えると83%、 60分以上ではすべてが危険度3でした。 通話が長引くのは、それだけ事態が複雑で、深刻で、一言では説明できないからです。 通話の長さは、現場の深刻さを映す鏡だといえます。
同じことを、危険度の側から見ることもできます。 通話時間の中央値は、危険度1が8.8分、危険度2が19.5分、危険度3が29.1分。 危険度が1段上がるごとに、通話はおよそ10分ずつ長くなっています。 危険度1の相談は約6割が10分未満で終わっているのに対し、 危険度3では半数近くが30分を超えます。
内容を分析した相談 n=995。 丸は中央値、帯は半数(25〜75%)が収まる範囲。最長は危険度3の120分。
そして、相談として窓口に持ち込まれる時点で、現場では既に、それ以上の時間にわたる事態が進行しています。 30分を超える相談が全体の約4割を占めるという事実(図5)は、 深刻な段階まで進んでから相談されるケースが、それだけ多いことを示しています。
内容を分析した995件を領域別に見ると、介護が53.0%と半数を超え、次いで医療(27.9%)、 看護(9.5%)、福祉(8.5%)と続きました。医療・介護・福祉の現場のなかでも、 とりわけ介護の現場に相談が集中しています。
内容を分析した相談 n=995
介護の現場に相談が集中する背景には、第1部で述べた在宅・訪問という「閉じた空間」の多さや、 利用者・家族との関わりが長期にわたり密になりやすいという、介護特有の事情があると考えられます。
内容を分析した995件のうち、通話内容から地域を判別できた相談について、 地域ごとに、どのような相談が寄せられているかを見ていきます。 以下は、東京都・埼玉県・神奈川県・大阪府の4都府県です。
以下の数字を、地域間で比較しないでください。 本書が分析したのは窓口に寄せられた相談の一部であり、地域ごとの件数や割合は、 その地域におけるカスハラの発生状況を示すものではありません。 各表は、それぞれの地域から寄せられた相談の中に、何が見えているかを単独でご覧いただくためのものです。
| 地域 | 受付期間 | 相談数 | うち危険度3 | 多く見られた構造 |
|---|---|---|---|---|
| 東京都 | 通年(4月〜) | 205 | 158件(77%) | 契約外要求/情報分断/暴言・セクハラ |
| 埼玉県 | 通年(4月〜) | 191 | 141件(74%) | 契約外要求/暴言・セクハラ/圧の偏り |
| 神奈川県 | 通年(4月〜) | 176 | 118件(67%) | 暴言・セクハラ/契約外要求/情報分断 |
| 大阪府 | 8か月(8月〜) | 132 | 104件(79%) | 契約外要求/情報分断/暴言・セクハラ |
内容を分析した相談995件のうち、 通話内容から地域を判別できたもの。横浜市・川崎市は神奈川県に含みます。 受付期間が地域により異なるため、件数を単純に比較することはできません。
もう一つ注目していただきたいのは、いずれの地域でも、危険度3の相談が過半数を占めているという共通点です。 これは特定の地域の事情ではなく、相談として表に出てくる時点で、すでに深刻な段階に達しているという、 本書全体に通じる傾向(3-2参照)が、地域を問わず現れていることを示しています。 多く見られる構造も、地域によらず「契約外要求(境界線の逸脱)」が上位に共通しています。
ここまでの数字とは別に、当社は提携先等から転送された電話を中心に、患者・家族等からの相談への対応を、2025年度に1,306件行っています。 これは、医療機関等に直接かかってきた、本来の業務とは関係のない電話―― 要領を得ない訴え、繰り返しの問い合わせ、長時間の話し込みなど――を、 当社の窓口が代わりに受け止めているものです。 これらは本書が分析した995件には含めておらず、詳しい分析は別途あらためて報告する予定です。 ここでは、その概況をまとめます。
これらの電話は、受付時間帯を通じて、特定の時間に偏ることなく満遍なく寄せられています。 午前・午後を問わず、窓口が開いている間はいつでも、こうした電話への対応が発生しているということです。 現場対応の負担が、日中を通じて途切れることなく続いていることがうかがえます。
当社が受け付けた転送電話のうち、 受電時刻が記録されている974件。件数は窓口の受付時間帯に受け付けたものです(土日祝を除く)。
通話の長さも、無視できません。一件あたり平均8.1分。短いものばかりではなく、3割近く(29%)は10分を超えます。 合わせると、年間で延べ約130時間。これだけの時間が、本来の医療・介護以外の対応に費やされていた計算です。
当社が受け付けた転送電話のうち、 通話時間が記録されている962件。
件数や時間だけでなく、これらの電話が「何を訴えているのか」も見ておきます。 最も多いのは医療・社会に対する個人的な意見・要望(29.2%)で、 次いで医療・症状の相談(18.4%)、医療機関・制度の問い合わせ(13.2%)と続き、 この3つで約6割を占めます。威圧的・不審な訴えや妄想的な訴えは約1割(11.8%)にとどまりました。 利用者・患者が窓口に寄せる声は、苦情や一方的な訴えだけでなく、実に多様です。
当社が受け付けた転送電話の対応記録(n=1,306)。
これらの電話は年間を通じて途切れることなく、毎月90〜150件前後寄せられています。 月ごとに見ると4〜6月に多く、12〜1月に少ないという差はあるものの、 受付のない月はなく、年間を通じて恒常的に発生していることがわかります。
当社が受け付けた転送電話の対応記録(n=1,306)。
これらの相談には、本来業務とは直接関係のない内容や、制度・法律への批判など、 一般の医療機関や行政の担当者では対応が難しいものが数多く含まれています。 委託元機関の試算では、職員がこれらの電話に対応した場合、1件あたり約30分、 年間で約636時間を要するとされています。 現場の実感としては、実際の対応時間はこれを上回り、年間1,000時間近くに達していたのではないかという声もあります。
試算値の636時間でも、職員1名の年間労働時間(約2,000時間)のおよそ3割にあたります。 現場の実感に近い時間で見れば、その割合は半分近くにまで届きます。 人手にしておよそ0.3人分から0.5人分が、電話対応に吸収されていたことになります。 しかも1,306件のうち一定の割合は、制度への批判や感情的な訴えであり、 医療機関の職員が対応しても解決に至らない内容でした。 時間の量だけでなく、その使われ方の面でも損失が生じていたと考えられます。
一方、当社の窓口がこの1,306件に費やした通話時間は、延べ約130時間です(図10)。 同じ電話でも、専門の窓口が受けるのと、診療や介護の合間に職員が受けるのとでは、 現場から失われる時間はまったく違います。
当社が窓口としてこれらの対応を担ったことで、医療機関の職員が電話対応に追われる状況は、ほぼ解消されました。 業務の負荷が減っただけでなく、職員の精神的な負担も軽くなり、本来の業務に集中できるようになっています。 その結果として、他の患者・家族への対応の質が上がり、職員のモチベーション向上にもつながったという声をいただいています。
これは単なる効率化ではありません。医療機関全体のサービスの質を保ち、職員の健康を守ることに直結する成果だと考えています。 職員からのカスハラ相談の995件と、この患者・家族等からの相談対応の1,306件。 合わせて年間2,000件を超える電話を、当社の窓口が受け止め、現場の負担を引き受けています。
相談を「何をされたか」と「なぜ止まらないのか」の2つの軸で分析し、代表的な事例を構造から読み解きます。
相談の中身を分析するにあたり、本書は2つの異なる「ものさし」を用います。 「何をされたのか」を測る行為の分類と、「なぜ、それが止まらないのか」を測る構造の分類です。
行為の分類には、厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」の9類型を用います。 公的な枠組みに沿うことで、他の調査や各自治体の対応指針と照らし合わせて読むことができます。 それぞれの類型が指す行為は、次のとおりです。
| 類型 | 指す行為 |
|---|---|
| 長時間拘束型 | 長時間の電話や居座りにより、対応する職員を長時間拘束する |
| リピート型 | 理不尽な要望について、繰り返し電話・問い合わせをする、または面会を求める |
| 暴言型 | 大きな怒鳴り声、「馬鹿」などの侮辱的発言、人格の否定や名誉を毀損する発言をする |
| 暴力型 | 殴る・蹴る・たたく、物を投げつける、わざとぶつかる等の身体的な加害を行う |
| 威嚇・脅迫型 | 「殺すぞ」等の脅迫的発言、反社会的勢力とのつながりの示唆、異常な接近など、職員を怖がらせる |
| 権威型 | 優越的な立場を背景に、不当な要求や特別扱い、謝罪などを強要する(いわゆる「不当なクレーム」を含む) |
| 事業所外拘束型 | 事業所の外や自宅などへ職員を呼び出す、待ち伏せる、押しかける |
| SNS・インターネット上での誹謗中傷型 | インターネット上での誹謗中傷、事実と異なる書き込み、個人情報の暴露 |
| セクシュアルハラスメント型 | 性的な言動、不必要な身体接触、私的な関係の要求 |
厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(令和4年2月)の類型に基づき、当社にて整理。
しかし、現場が本当に苦しむのは、行為そのものよりも、それが「止まらない」ことです。 なぜ止まらないのか――その構造を捉えるのが、もう一つのものさしです。 本書では、当社がメールマガジン連載・小冊子で用いてきた6つの類型を、その枠組みとして用います。
| 類型 | 構造の要点 |
|---|---|
| 契約外要求 境界線の逸脱 |
「ついでにこれもお願い」の小さな依頼が積み上がり、境界線が曖昧になる。「前の人はやってくれた」が典型的なサイン |
| 過度な管理・監視 コントロール欲求 |
家族の不安が「管理行動」として表出する。記録・監視・評価がセットで現れ、職員が萎縮する |
| 圧の偏り 特定職員への圧の集中 |
「あなたのときだけ」「前の人は良かった」。優しい・断れない職員に攻撃が固定化する |
| 暴言・セクハラ 支配欲と境界崩壊 |
言葉や性的言動によって境界が崩れている状態。「冗談」「悪気はない」は責任回避の典型 |
| 感情の揺れ・境界の曖昧化 境界線の揺らぎ構造 |
褒める・責めるが交互に起き、職員が心理的に巻き込まれる。最も見落とされやすい |
| 情報分断 組織の盲点 |
危険は現場に集中しているのに情報は多職種に分散し、誰も全体像を把握できない |
そして、これらの相談がどれだけ深刻な段階にあるかを測るのが、危険度スケールです。 これは単なる深刻さの目盛りではなく、危険が段階を踏んで進行するという構造を示すものです。
| 危険度 | 段階 | 状態 | 必要な対応 |
|---|---|---|---|
| 危険度 1 | 違和感 初期 |
曖昧で記録に残りにくい「気配」。声のトーンがわずかに強い、空気が少し重い、特定の職員にだけ反応が変わる | ここで気づけるかが分岐点。記録化 |
| 危険度 2 | 負荷の集中 中期 |
危険が「人」に寄っていく。長く接する職種に圧が寄り、要求が増え、職員が「今日は大丈夫か」と感じ始める | 情報共有・対応の統一・同行訪問 |
| 危険度 3 | 組織介入が必須 後期 |
個人では支えきれない。強い言動が繰り返され、情報が分断され、職員が恐怖や無力感を抱く | 「組織の盾」が不可欠。担当変更・複数名訪問・契約見直し |
分析した995件を危険度で分けると、結果は深刻なものでした。 約7割にあたる677件が、危険度3――個人や現場の努力では支えきれず、組織の介入が不可欠な段階に達していました。
内容を分析した相談 n=995
危険度1――「違和感」の段階で寄せられた相談は、わずか8%(80件)にとどまりました。 これは、危険度1の段階では相談に至らないことを意味します。
違和感は、記録にも残りにくく、相談にもつながりません。 危険が「相談」という形で表に出てくるころには、その多くが、すでに手遅れに近い段階まで進んでいるのです。 本書が分析できたのは氷山の一角であり、その水面下では、いまも数多くの「違和感」が、 誰にも共有されないまま静かに積み上がっています。
この深刻さは、職員が受けている影響にも表れています。 相談の約半数で、職員は「恐怖・強い不安」以上の影響を受けており、 そのうち148件では不眠・動悸・受診などの心身の不調が、71件では離職の意向が語られていました。
そして、この危険度の「並び方」そのものに、もう一つの警告が隠れています。
件数は内容を分析した相談 n=995
労働安全の分野では、危険は本来「ピラミッド型」で現れると知られています。 ハインリッヒの法則と呼ばれるもので、1件の重大な事故の背後には29件の軽微な事故があり、 その下には300件の「ヒヤリ」とする出来事が積み重なっている――1:29:300という比率です。 下にいくほど数が増える、裾野の広い三角形になります。
ところが、本書が相談データから見たかたちは、これが上下逆さまでした。 表に出てきた相談の約7割が、すでに組織の介入を要する危険度3。予兆にあたる危険度1は、わずか8%しか見えていません。 本来いちばん数が多いはずの「予兆」が、いちばん見えていないのです。
これは、予兆が少ないのではありません。予兆の段階では誰も危険と気づけず、記録も相談もされないまま、 静かに危険度3へと育っている――そう考えるほうが自然です。 そして、その逆さまの三角形の頂点の、さらに上には、 現実に起きてしまった、取り返しのつかない事態があります。 危険度3と、その一線を分けるのは、「越えてしまったかどうか」の紙一重にすぎません。
この法則を、本書のデータに当てはめてみます。当社に寄せられた危険度3の677件と危険度2の238件、 合わせて915件が、真ん中の「29」にあたるとすると、 その下の「300」にあたる出来事――まだ相談にも記録にもなっていない予兆は約9,500件にのぼり、 現場が実際に向き合っている出来事は、合わせて1万件を超えるという計算になります。 そして頂点の「1」にあたる重大な事態は、この比率でいえば30件前後。 実際に、何らかの暴力行為や警察の介入(傷害等の事件)に至ったものが20件程度あり、 さらに痛ましい事件も現実に起きています。 早期の相談、早期の対応が欠かせないことの、ひとつの証左だと考えます。
だからこそ、この逆さまの三角形を本来のかたちに戻すこと―― 予兆の段階で拾い、記録できる仕組みを持つことが、重大な事態を防ぐ出発点になります。 その具体策は、第4部で述べます。
次に、相談の中身を2つのものさしで見ていきます。まず「何をされたのか」(行為)です。
n=995。厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」の類型に準拠。
最も多いのは暴言型(36.2%)、次いでリピート型(18.9%)です。 第1部で見た国の調査(継続的・執拗な言動が最多)と同じく、 怒鳴りや侮辱、そして「繰り返される」ことが、現場を最も苦しめていることがわかります。
では、それが「なぜ止まらないのか」。もう一つのものさし――構造で見ると、別の景色が見えてきます。
n=995
構造で見ると、最も多いのは契約外要求(34.0%)――「境界線の逸脱」でした。 さらに情報分断(15.6%)や圧の偏り(12.5%)が続きます。 これらは、行為の分類には現れない、「組織の側の問題」です。
この2つのものさしを掛け合わせると、本書ならではの視点が見えてきます。 たとえば同じ「暴言型」の相談でも、その背後にある構造はさまざまです。
| 背後の構造 | 件数 | 意味と打ち手 |
|---|---|---|
| 暴言・セクハラ | 125 | 境界そのものが崩れている。組織として明確に線を引く |
| 契約外要求 | 101 | 要求が通らない苛立ちが暴言に。境界の再設定が本質的な打ち手 |
| 圧の偏り | 64 | 特定職員に暴言が集中している。担当変更が正しい対応 |
| 情報分断 | 49 | 暴言が組織に共有されていない。まず記録と共有から |
主たる行為が「暴言型」の相談 n=360 の内訳。
同じ暴言でも、背後の構造が違えば、有効な打ち手は変わります。 契約外要求が背後にあるなら「境界の再設定」、圧の偏りなら「担当変更」、情報分断なら「記録と共有」――。 行為だけを見て「暴言をやめさせよう」とするだけでは、構造が残る限り、形を変えて再発します。 だからこそ、対応は個人の努力ではなく、構造に手を打つ組織の仕組みでなければなりません。
最後に、相談の背景を整理します。第2部で受理記録から見た傾向は、 通話内容の分析でも、独立して裏づけられました。
ここまでの数字が、実際の現場でどのように立ち上がるのか。 代表的な事例を、当社の相談支援AI「DFSロボット君」の一次対応と、専門家による構造分析の二段構えでご紹介します。
以下の事例は、当社窓口に寄せられた複数の相談をもとに、構造を損なわない範囲で合成・抽象化した架空の事例です。 特定の個人・施設・事案を示すものではありません。相談者・対象者・職員の氏名、施設名その他の特定可能な情報は一切含みません。
特別養護老人ホームの職員です。ある利用者のご家族が、面会中に突然、職員を背後から羽交い締めにしました。 顔を近づけて「あなたの経歴は何なのか」「対応がなっていない」と強い口調で責めたのです。
ところが、しばらくすると泣き出して「ありがとう」「よろしくお願いします」と感謝を述べ、 職員の手を取って穏やかに帰っていきました。以前にも別の職員へ威圧的な言動があったと聞いています。 何が起きているのか分からず、どう対応すればいいのか困っています。
◤ DFSロボット君
身体に触れる行為が起きており、まず職員の方の安全を最優先に考えてください。 当面、そのご家族が面会される際は、職員を一人にせず、複数名で対応してください。
そのうえで、次のことをお勧めします。
身体的な接触が続く場合や、安全に不安がある場合は、管理者の方、必要に応じて警察や弁護士などの専門機関にご相談ください。 法律に関わる判断については、わたしからはお答えできませんので、専門家におつなぎします。
感情の揺れは、在宅・施設の現場で最も見落とされやすい危険です。 「さっきは感謝してくれた」という記憶が、直前の攻撃を打ち消してしまい、 職員も組織も「大丈夫だったから」と問題を先送りにしがちだからです。
しかし、揺れは「関係が良好である」ことの証ではなく、境界が曖昧になっているサインです。 職員個人が「うまく受け止めよう」とすればするほど、関係に巻き込まれ、自責と過剰対応に陥ります。 重要なのは、これを個人の相性や対応力の問題にせず、構造の問題として組織が引き取ることです。 面会の方法を組織として定め、職員を一人にしない――それが、揺れに巻き込まれない確実な方法です。
有料老人ホームの管理者です。ある利用者が、特定の職員一人だけを標的にしています。 人格を否定する言葉、無視、「クビにしてやる」といった発言を繰り返し、 夜勤中には手を上げようとする素振りもありました。
他の職員には穏やかなのです。担当から外した後も、廊下ですれ違うときに暴言を浴びせます。 その職員は「自分が悪いのでしょうか」と悩み、心身に不調が出て、辞めたいと言い始めています。
◤ DFSロボット君
特定の職員お一人に負担が集中している、とても心配な状況です。 まず大切なのは、これはその職員の方に落ち度があるわけではない、ということです。 ご本人にそのことをはっきり伝え、責任を感じさせないようにしてあげてください。
そのうえで、次のことをお勧めします。
手を上げようとする素振りなど、安全に関わる事態については、管理者の方や専門機関にご相談ください。
圧の偏りは「生理的に合わない」「あの職員の対応が悪い」と説明されがちですが、 攻撃は多くの場合、優しく、断りにくく、丁寧な職員に向かいます。つまり、 標的にされるのは「弱いから」ではなく、攻撃が通りやすいからです。
ここで個人対応を続けると、その職員は必ず疲弊し、離職に至ります。 本書のデータでも、圧の偏りを構造とする相談の多くが危険度3に達していました。 担当変更をためらわないこと――それが、職員を失わないための最も現実的な打ち手です。
特別養護老人ホームの職員です。ある利用者について、医療上の食事制限があるにもかかわらず、 ご家族が「食品を持ち込んで食べさせてほしい」と繰り返し求めてきます。
制限を説明してお断りすると、担当職員を怒鳴りつけ、長時間その場に引き止めます。 ナースコールを連続で鳴らし、特定の職員ばかりを呼び出します。ご家族もこの要求に同調しており、 現場は対応に追われています。
◤ DFSロボット君
怒鳴られると、つい「どうすれば収まるか」に気を取られてしまいますが、 このケースで大切なのは、そもそもの要求(医療上の制限に反する食品の持ち込み)に、 事業所としてはっきり線を引くことです。ここが曖昧なままだと、同じことが繰り返されてしまいます。
具体的には、次のように対応されるとよいでしょう。
線を引くことは、利用者様を突き放すことではありません。制限は利用者様ご本人の安全のためのものです。 要求が収まらず、今後の対応にお困りの場合は、管理者の方や、必要に応じて行政・専門機関にご相談ください。
契約外要求は、本書のデータで最も多く見られた構造(34.0%)でした。 そして、この事例のように、しばしば暴言や長時間拘束といった別の行為を伴います。 第3部の表8で見たとおり、「暴言型」の相談の背後には契約外要求が数多く潜んでいます。
ここで大切なのは、境界を引くことは、利用者やご家族を突き放すことではないという視点です。 医療上の制限は利用者本人の安全のためのものであり、境界を守ることは、 利用者の安全と、職員が働き続けられる環境の、両方を守る技術です。 線を引くのは職員個人ではなく、組織でなければなりません。
介護支援に関わる者です。ある利用者について、ご家族が複数の事業所・ケアマネジャーに、 頻繁にメールや電話を繰り返しています。返信が遅い、文面が気に入らないと責め、 職員の人格や能力を否定して長時間罵倒します。
担当を変えても続きます。困っているのは、関わっている事業所がそれぞれ別々に対応していて、 誰も全体像をつかめていないことです。ある事業所では「もう限界」、別のところでは「まだ大丈夫」と、 認識がバラバラなのです。職員に不眠が出て、退職者も出始めています。
◤ DFSロボット君
いちばんの問題は、関わっている事業所それぞれが別々に対応していて、 誰も全体の状況をつかめていないことにありそうです。 「まだ大丈夫」と「もう限界」が同時にある、というのは、まさにそのサインです。
まず、次のことから始めてみてください。
すでに不眠や退職といった影響が出ておられるとのことですので、 最前線の職員の方を孤立させないことを、何より優先してください。
情報分断は、本書のデータで3番目に多い構造(15.6%)であり、 危険が最も深刻化したときに現れやすい構造です。 多職種・多事業所が関わる在宅・介護では、「危険は集中するのに、情報は分散する」という 構造的な矛盾が、つねに起こりえます。
ここで最も危険なのは、「誰かが対応しているはず」という思い込みです。 全員がそう思っているあいだに、最前線の一人が潰れていきます。 必要なのは、情報を統合し、共通の物差しで危険度を評価し、組織として―― ときには事業所の枠を越えて――介入することです。 本書が繰り返し述べてきた「記録し、共有し、組織で受け止める」という原則が、 最も試されるのが、この情報分断です。
4つの事例に共通するのは、危険が「人」ではなく「構造」に宿っているということです。 そして、構造を見抜けば、打つべき手が見えてきます。 行為の背後にある構造を読み、個人ではなく組織として受け止める―― それが、現場を、職員を、そして利用者本人のケアを守ることにつながります。
本書の分析から導かれる提言と、現場でそのまま使える対応チェックリスト。
第1部で見たとおり、2026年10月1日から、事業主にはカスハラ対策が義務づけられます。 国が示した措置――「一人で対応させない」「記録を残す」「事実関係を確認する」「担当を変更する」――は、 抽象的な理念ではなく、本書が現場の相談から見出した必要と、正確に一致しています。
| 国が求める措置(厚労省指針) | 本書の分析が示した、現場での必要 |
|---|---|
| 一人で対応させない体制 | 「圧の偏り」(12.5%)「情報分断」(15.6%)への対策そのもの。特定職員に集中する攻撃は、組織で受け止めるほかない |
| 録音の活用 | 相談の30.2%で、すでに録音が対応手段として現れている。現場は必要性を実感している |
| 事実関係の迅速な確認 | 危険度1〜2の段階で拾うために不可欠。記録がなければ、危険度3になるまで気づけない |
| 担当の変更 | 「圧の偏り」への正しい打ち手。担当変更は"逃げ"ではなく、構造を安定させる戦略(第3部 表9) |
国が求める措置は、現場の実態から見ても正しいものです。 残された問いは「何をすべきか」ではなく、「それを、どう仕組みとして備えるか」です。
本書が示した最も重要な事実は、相談として表に出てくる時点で、その約7割が、 すでに組織介入が不可欠な段階(危険度3)に達しているということでした。 そして、危険度1――「違和感」の段階で拾えた相談は、わずか8%にすぎませんでした。
これは、現場に「危険が小さいうちに拾う仕組み」が足りていないことを意味します。 違和感は記録されず、共有されず、相談にもつながらないまま、静かに危険度3へと育っていきます。 したがって、最優先の提言は次のとおりです。
危険は、まず「記録され、共有され、組織が介入できる」形にならなければ、止められません。 現場の職員が声を上げられ、早い段階で一次的な対応を受けられ、その記録が組織に残る―― そうした窓口の機能を整えることが、危険度3の事態を未然に防ぐ、最も確実な備えです。
打ち手を、優先度で整理すると次のようになります。 縦軸は「緊急度(放置したときのリスクの大きさ)」、横軸は「着手のしやすさ」です。
本書の分析に基づく整理。
危険度3に至った相談では、職員の心身の不調(14.9%)、離職の意向(7.2%)、 行政・自治体との対応(36.2%)、契約の見直し(20.6%)が現実に生じています。 一件が危険度3まで育ったときに失われるもの――人材、時間、地域からの信頼――を思えば、 危険を小さいうちに拾う仕組みへの投資は、はるかに小さな負担です。 職員を守ることは、結果として、利用者が受けるサービスの質を守ることにつながります。
前項の「投資」を、金額に置き換えてみます。本書では、71件の相談で、職員から離職の意向が語られました。 職員が1人離職すれば、その補充には現実の費用がかかります。介護福祉士(常勤)を人材紹介で採用した場合の手数料は、 1人あたり平均 約89万円(全国老人福祉施設協議会「令和5年度 人材紹介手数料実態調査」)。 看護職などではさらに高く、この値はむしろ控えめな部類です。
「意向」は、必ずしも実際の離職を意味しません。そこで保守的に、意向が語られた71件のうち3〜5割が実際の離職に至ると仮定します。 (介護職の年間離職率は13.1%〔介護労働安定センター「令和5年度 介護労働実態調査」〕。 離職意向を明確に示した層の実離職率はこれを上回ると考えるのが自然ですが、ここでは低めに見積もります。)
すると、補充費用だけで 約21〜36人 × 89万円 = おおよそ 1,900万〜3,200万円。
これは採用手数料という直接費用だけを数えた額であり、引き継ぎ・教育の時間、残された職員への負荷、
サービスの質の低下は含みません。
そして、この損失の多くは――離職に至る前、カスハラを危険度1〜2の段階で拾い、組織で受け止める仕組みがあれば――防げた可能性があります。
早期に拾う仕組みへの投資は、この額と比べれば、はるかに小さな負担です。
※本試算は一定の仮定に基づく概算であり、実際の離職者数・費用を示すものではありません。
最後に、現場でそのまま使えるチェックリストを示します。 危険度の段階ごとに「何をすべきか」を整理したものです。院内・事業所内での掲示・配布にご活用ください。
| 段階 | 現場で行うこと |
|---|---|
| 危険度 1 違和感 |
□ 「声のトーンが強い」「特定の職員にだけ態度が違う」といった違和感を、その日のうちに記録する □ 小さな契約外の依頼も「今回だけ」で流さず、記録に残す □ 気づいた違和感を、口頭でよいのでチーム内で共有する |
| 危険度 2 負荷の集中 |
□ 「誰に」「どの場面で」負荷が寄っているかを事実として可視化する □ 対応をチームで統一する(「前の人はやってくれた」を生まない) □ 管理者が同行し、状況を職員個人ではなく組織として把握する □ 必要に応じて録音など、事実を残す手段を検討する |
| 危険度 3 組織介入が必須 |
□ 一人で対応させない(複数名対応・同行・担当変更) □ 事実関係を記録として整理し、管理者・組織で共有する □ 職員の心身の状態を確認し、「あなたのせいではない」ことを明確に伝える □ 契約や体制の見直しを組織として検討する □ 法的な判断が必要な場面では、弁護士等の専門家に相談する |
危険度3の対応は、どうしても大がかりになります。しかし本書が示したように、 危険度3の事案も、はじめは危険度1の「違和感」でした。 違和感の段階で記録し、共有できていれば、多くは危険度3に育つ前に止められます。 このチェックリストの出発点が「違和感を記録する」である理由は、そこにあります。
本書は、当社の相談窓口に寄せられた相談の、記録が残る一部を分析したものです。 そこから見えたのは、現場が個人の努力と我慢で危険を抱え込んでいる実態でした。 そして、相談として表に出るころには、その多くがすでに深刻な段階に達しているという事実でした。
危険は、突然ではなく、静かに積み上がります。 だからこそ、それを個人に背負わせるのではなく、組織として、そして地域として受け止める仕組みが必要です。 2026年10月に向けて対策を整えようとされている自治体・医療関係機関の皆さまにとって、 本書が、その仕組みを実態に基づいて設計するための一助となれば幸いです。
そして、この分析は毎年続けることで、経年の変化を捉えられるようになります。 現場で起きていることを記録し、分析し、社会に届け続けること――それ自体が、現場を守る力になると、私たちは考えています。
本書の相談件数995件は、当社が自治体・医師会等へ報告している受理記録に基づく件数です。 類型・危険度の構成は、この995件の通話内容から分類したものです。
本書の数値を引用される際は、相談件数995件に基づく旨を併記くださいますようお願いいたします。
本書でご報告した相談は、当社が運営するカスハラ対策サービス DFS(ディフェンス・フォース・サービス)の相談窓口に寄せられたものです。 現場の危険を「記録し、共有し、組織として介入できる」状態にするための仕組みとして、以下をご用意しています。
2016年にサービスを開始し、現在約30,000法人にご導入いただいています。 2018年には、東京都医師会の主要事業として採用されました。
| サービス | 内容 |
|---|---|
| ハラスメント相談窓口 | 警察OB・クレーム対応の専門家が電話で対応します。本書でご報告した995件の相談は、この窓口に寄せられたものです。 |
| AI相談ロボット君 (DFSロボット君) |
24時間365日、チャットで一次対応を行います。夜間・休日など、専門家にすぐつながらない時間帯でも、その場で対応の方針を確認できます(本書 第4部の事例をご参照ください)。 |
| DFS見守りサービス | クチコミサイト等への書き込みや誹謗中傷を監視し、対応を支援します。 |
| ハラスメント対応研修 | オンデマンド動画等による研修をご提供します。窓口の設置とあわせて、職員が対応の型を身につけるための仕組みです。 |
2026年10月1日以降、カスハラ対策は事業主の義務となります。 相談窓口の設置、職員への周知、被害を受けた職員へのケア――そのいずれについても、 自治体・医療関係機関の皆さまのご状況にあわせてご相談を承ります。